<子ども>のための哲学

<子ども>のための哲学 講談社現代新書―ジュネス

<子ども>のための哲学 講談社現代新書―ジュネス

 僕が、きわめて真摯で誠実であると考える哲学者、永井均の哲学入門本。4年ぶりくらいの再読。
 「悪いことをなぜしてはいけないのか」、「ぼくはなぜ存在するのか」という、永井が幼いころより抱いてきた2つの疑問を思考する過程を示すことで、哲学する方法の1つを示す形になっている。
 そもそも、永井にとって哲学とは、公共的なものだなんてありえない。哲学者とは、一般の人は気がつかない部分に気づいてしまった人たちであり、哲学とは、そんな彼らが一般の人になるための努力の結果でしかないのだ。そして、真に哲学をしている段階では、その哲学の思想は自らの人生に決して役立つことはない。思考の結果は常に残骸であり、次なる思考への課題であるのだ。
 哲学は4つの種類に分けられる。「子どもの哲学」、「青年の哲学」、「大人の哲学」、「老人の哲学」の4つに。そして「青年の哲学」以降それらは順に、「文学」、「思想」、「宗教」に代替されるが、「子どもの哲学」だけは、何にも変えられない。そしてこの「子どもの哲学」を自らの頭を使って実践することを、永井は強く推奨している。
 面白い部分を引用する。

イデオロギーとは、ことがらの実態を明らかにするようなふりをして、実はある何かを正当化するためにできている説明体系のことだ。(p,170)

青年期とは、子どものリアリズムが否定されて、上げ底のロマンティシズムをしいられる時期なのかもしれない。(p,176)

大人と青年はイデアリストだ。彼らは観念の世界に安住するニヒリストなのだ。青年とは、大人のニヒリズムを攻撃するニヒリストにすぎない。老人と子どもはリアリストだ。彼らは、価値を存在に変換せざるをえないリアリストなのだ。なぜなら価値とは、子どもにとって、身につけるべき事実に過ぎないし、老人にとっては、身をもぎはなすべき事実にすぎないからだ。子どもはまだ存在の世界から世界をながめており、老人はもう価値の世界を出て価値全体を存在に変換せざるをえなくなっているのだから。(p,216)