アダム・スミスの誤算

 現在、「グローバリズム」のイデオロギーの遠い父親と考えられているスミス像に、反論を与える形で進行する。
 市場では、需要と供給の関係から、市場価格はおのずと適正な「自然な価格」に近づいていく、とアダム・スミスはしるした。では、その「自然な価格」とはいったいどういったものであるのか。
 その回答を得るため、ここでいったん、スミスが道徳哲学者であったことに注目してみる。スミスは、人間の「わたし」を、人間関係の中で流動し、変化していくあるものの集合であると考えていた。スミスは、「主体」というアイデンティティーを認めていない。不確かな存在である人間関係の間で、自然と形成された道徳的規範とは、だれもがその形成に関与できる一方で、誰もその形成に対して決定的な影響を持つことはできない。そういった「確実性」をもっている。
 スミスの考えていた「自然な価格」とは、土地や財産を基礎にした「富」と、確かな是認をもった「徳」によって支えられている社会秩序によるものだった。
 しかし、重商主義はこのスミスの考えを無視していってしまう。貨幣や債権による経済は、土地による労働といったような確実性をもたず、偶然の力が強く働く。つまり、人為的な操作が可能であるといえる。この「土地」から「貨幣」への経済の変化は、社会の「徳」の性質も変質させていった。それは「徳」から「作法」への変化と表現できる。「徳」の存在もまた、貨幣と同じく確かな基礎をもたない浮遊した存在となってしまった。
 スミスは、このような不確かな経済をつくってしまう重商主義を弾劾する。スミスにとって、国際経済より国内経済、商業より農業のほうがプライオリティは高い。土地と労働に基づく生産から比較的確実な収益が保証され、そのあとにある種の徳、誠実、勤勉といった精神が出来上がると考えていた。そのような状況において、「自然な価格」とは、生まれるのである。住所主義は、こういった確実性を崩壊させてしまう。