動物化するポストモダン

動物化するポストモダン オタクから見た日本社会 (講談社現代新書)

動物化するポストモダン オタクから見た日本社会 (講談社現代新書)

 まあ、有名な本だよな。内容を簡単にまとめる。
 物語の享受の仕方より、社会の変化を見つめていく。
 近代の世界像はツリー型であり、ポストモダンの世界像はデータベース型である。つまり、近代の世界像では、深層の部分に大きな物語が、表層の部分に小さな物語が存在する。僕たちは、小さな物語を突破して、大きな物語に到達していた。一方、ポストモダンの世界像では、大きな物語はもはや存在しない。深層の部分には、物語の要素をなすデータベースが存在する。例えば、「ツンデレ」や「密室」や「難病」などが、それにあたる。そして表層の部分には、そのデータベースを基にして作られた同人誌のような物語が存在する。本書では、このポストモダンの物語をシミュラークルと呼ぶ。近代的な世界像が映画的なものだとすると、後者はインターネットの検索エンジン的なものであろう。ポストモダンの僕たちは、シミュラークルとなった小さな物語を消費するのと同時に、大きな非物語であるデータベースを相対的に消費する段階となっている。70年代に大きな物語が喪失して、80年代にはそれを捏造する段階に移った。そして90年代には、捏造することすらも放棄して、データベース自体を欲望する段階を迎えた。
 この小さな物語への欲望と、データベースである大きな非物語への欲望の乖離的構造こそ、ポストモダンの世界像の特徴である。本書では、この時代の変化を「動物化」と名づける。*1 僕たちは、すでに間主観的な欲望を必要とせず、自分の好むデータベースへ向かって、単純に欲望している。そしてそのことによって欠如される社会性を埋めるため、もてはやされるようになったのが、「泣きゲー」や、わかりやすく感動しやすい「純愛もの」の隆盛である。ポストモダンの僕たちは、小さな物語を突破して大きな物語に感動することは出来ない。そのため物語を実感するためには、小さな物語への比重がとても大きくなる。結果、わかりやすい感動的な物語が歓迎されるようになる。

*1:人間は、他者の欲望を欲望するものだとされる。人間の欲望とは、他者の存在を必然とする、間主観的なものである。「動物化」とは 、そのような間主観的な構造が消え、各人それぞれが、欠乏から満足へ向かう回路の中で閉じてしまう状態のことをいう。