<美少女>の現代史

「美少女」の現代史 (講談社現代新書)

「美少女」の現代史 (講談社現代新書)

 著者のササキバラ・ゴウは、1961年生まれで、徳間書店の「少年キャプテン」で編集長をしていた経歴の持ち主。そんな彼が、マンガやアニメに登場する美少女の歴史について、男の子の視点より眺めている。
 ササキバラはまず、いわゆる萌えのムーブメントがはじめて現れたのが、72年に放送された「海のトリトン」であると言う。しかし、これはまだ女の子たちの話であって、男の子たちにとっての萌えの目覚めは、79年あたりまで待たなければいけない。そして、80年代の初頭から始まったほ本格的な萌えのムーブメントの代表となるのが、高橋留美子吾妻ひでお宮崎駿の3人である。
 この中で、宮崎監督作の「カリオストロの城」に出てくる美少女、クラリスに注目する。この恋愛的な物語の中で、クラリスの存在は、主人公のルパンを愛してくれる、つまり主人公に絶対的な生きる根拠をあたえてくれる存在として出現する。70年代を通して、少年マンガのヒーローたちは「価値」や「目的」を失っていく。その失ったものの変わりにあらわれたのが、「女性」であった。
 そして、

宮崎駿吾妻ひでおに見られるような「美少女」は、男性が恋愛の対象として女性を見つめ、そういう場で自分の欲情の無根拠さ(お約束事的にエッチな反応を女に一方的に期待してしまう無根拠なマッチョ)に気づいてしまい、自分を「彼女を傷つけてしまう性的存在」として自覚することから生じています。(p,64)

 だからこの時に、彼女を「傷付きやすい存在」と、認識される。こうなるともはや、男性は彼女を傷つけることはできない。つまり、彼女は決して傷付かない存在となる。こうして、美少女は絶対的な存在として男性の前に出現し、無敵のキャラクターとなる。典型的な例が「うる星やつら」のラムちゃんだろう。
 「ナウシカ」以来、女の子のがんばる姿をえがいてきた宮崎駿にたいして、富野由悠季は戦えなくなっていく男の子をえがいてきた。しかし、男の子たちは、すでに「価値」も「目的」も失っているため、無限地獄におちいってしまった。
 美少女ゲームの、自分が物語の進行に決定権を持つというインタラクティブ性は、プレイヤーに責任を負わせる。その責任は、プレイヤーである「私」に主体性を生ませ、それによりキャラクターたちは実存を確立する。
 意外と言っては失礼か、志の高い本だった。第4章「美少女という問題」はここにまとめなかったが、いくつかの問題*1はあるものの、おもしろい考察にみちている。

*1:著者がかんがえている少女マンガ史があまりにも一面的だ