戦闘美少女の精神分析

戦闘美少女の精神分析 (ちくま文庫)

戦闘美少女の精神分析 (ちくま文庫)

 「ひきこもり」の問題を専門にしている精神分析医が、アニメやマンガなどのサブカルチャーをテキストにして、「おたく」の問題を中心にすえた現代日本文化論。
 まず著者は、現実と虚構の間の差異を認めない。そもそも現実とは、「ある体験が何ものにも媒介されていないという意識」であり、それに対して虚構とは、「ある体験が何かに媒介されたものであるという意識」に過ぎない、とする。この「媒介された/媒介されない」という意識の差異は、想像的なものでしかない。このため、「おたくは現実に帰れ」という言説は不可能である、とまずしている。
 著者の主張はところどころわからない部分もあるのだが、理解できたものだけまとめておく。
 アニメやマンガなどの文化はハイ・コンテクスト性を特質とする*1。このため、アニメやマンガは伝達性のきわめて高い表象空間となりえた。この想像的空間は、自律的なリアリティを維持すべく、セクシュアリティの表現を取り込まなければならない。受け手の欲望の単純な投影を離れて、表象空間の中で自立する欲望のエコノミーが成立するには、受けての欲望がヘテロセクシュアルなものであるほど、想像的な「表現された性」はそれを逸脱していく必要がある。その点において、戦闘美少女というイコンは、少児愛、同性愛、フェティシズムサディズムマゾヒズムなどさまざまな倒錯を潜在させた、稀有な発明であるといえる。
 西欧の世界では、描かれたものとは現実の模倣でなければならないという無意識の検閲が働き、一方、日本では描かれたもののリアリティを支えるものがセクシュアリティである、という指摘はおもしろかった。
 本書では戦闘美少女を、ファリック・ガールと呼ぶ。西洋の物語に出てくる、アマゾネスな女性のイメージを万能的な女性としてファリック・マザーと呼び、それを例にとって、ファリック・ガールと名づけている。
 「レイプ」の外傷性を動機にして戦うファリック・マザーに対して、ファリック・ガールは具体的な動機を喪失している。彼女は徹底的に空虚な存在である。ある日突然異世界に紛れ込み、何の必然性もなしに戦闘能力を与えられる。この彼女たちにおける外傷性の排除は、彼女たちの虚構性を支えるための不可欠な要素となる。もし外傷が設定されてしまったら、そこから「日常的リアル」が侵入し、彼女たちの幻想が侵されてしまう。
 われわれが現実のヒステリーに魅了される際*2、欲望はエロス化された実体としての身体的イメージから出発し(セクシュアリティ)、深層に見出される外傷(リアリティ)に向けられる。一方ファリック・ガールに対しては、彼女たちの戦闘に魅了され(リアリティ)、それを描かれたエロスの魅力(セクシュアリティ)と混合することで、「萌え」が成立する。現実であれ、虚構の中であれ、「セクシュアリティ」と「リアリティ」が不可分に結び付けられて、ヒステリー化かをこうむるのだ。

*1:これはつまり、アニメやマンガのほうが表現内容の幅を狭く限定しているという意。写真とアニメを比較した場合、写真は実写であるのだから、アニメより情報量が多くなるだろう。そのため写真はアニメより表現内容の幅が広いといえる。

*2:恋愛の名において女性に欲望を向けるとき、われわれは女性をヒステリー化しているといえる。われわれが女性に惹かれるさい、眼に見えない女性の本質にひきつけられるのだと信じようとする。ヒステリー化とは、このときの可視的な表層と不可視的な本質との、無根拠な乖離と対立化の手続きを意味している。そしてここで言われるところの女性の本質とは、実は外傷的なものに等しい。われわれが女性の外傷にこそ魅了されているというのは、演歌やベストセラーになった「永遠の仔」など大衆文化の中でいくらでも見出せる。