20世紀とは何だったのか

 上巻「人間は進歩してきたのか」の続刊。本書も、佐伯啓思京都大学で行った講義を収録する。上巻では西欧近代をあつかって、ニーチェを例にだしながら、西欧近代がたどり着いたものは、ニヒリズムだったという結論だった。本書はその続きからはじまる。
 近代と現代の分かれ目を、本書では第1次大戦後としている。世界の主導権が、ヨーロッパからアメリカとソ連へ移ったのがそのきっかけとなる。このアメリカとソ連という2大国に共通しているものは、ヨーロッパを起源とする国であるという点である。「自由と民主主義」も「社会主義国家」も、どちらもヨーロッパの階級制度や貴族支配からの脱却を夢見て、あらわれたものである。
 本書は次に、ファシズム出現の原因を探る。近代の終わりより、世界はニヒリズムに支配されている、というのは既に述べた。そこは、目的や統一的な価値の体系、真理が存在しない世界だ。人々は自らの存在の基盤を失い、根無し草の存在である。現代文明の大衆とは、根無し草の群れ、自分にとってふさわしいと思える場所が見当たらない「故郷喪失者」の群れとなっている。そんな彼らにとって、ファシズムとは生の実感を与え、帰属する場所を提供する。ファシズムとは、そのような世界観の中から誕生したものである。
 現代文明において、大衆文化が大きな意味を占めていると、本書では書いている。その大衆文化がもっとも先鋭化されたものが、現代アメリカ文明である。プロテスタンティズム古代ローマを模倣してヨーロッパより移入した共和主義の精神、財産所有者から出発する自由な経済活動(個人主義的資本主義)、アメリカ建国の精神としてこの3つは無視できない。特に本書で重要となっているのが、個人主義的資本主義である。しかしフロンティアが消滅し、誰もが土地保有者になれるわけでなくなった。そこであらわれたのが、大企業制である。フォードやマクドナルドといった企業を例にだすと分かりやすいが、アメリカ大企業の技術主義は、脱文脈化を図る。脱文脈化とは、どこにでもありながら、どこにも定着しないこと、「故郷喪失者」と同じである。現代アメリカ文明の技術主義は、技術という本来手段であったものを、目的としているものである。そしてそれは、「故郷喪失者」というさらなるニヒリズムを生み出そうとする。
 こんなに分かりやすくていいのかというほど、分かりやすい。上下巻となっているが、それぞれ独立して成立しているので、1冊だけ読むというのも十分可能である。