さようなら、ギャングたち

さようなら、ギャングたち (講談社文芸文庫)

さようなら、ギャングたち (講談社文芸文庫)

 ふと、10代の頃大好きだった小説を再読してみる。この作品をはじめて読んだのは、おそらく高校1年か2年の頃だと思うので、7年ぶりくらいか。あの頃は、本作と村上春樹の「風の歌を聴け」の2作が、現代日本文学における僕の中での双璧だった。
 こうして読み返してみると、わかることがいくつかある。
 まず第1に、当時の僕がどのように小説を読んでいたのかが、よくわかる。ものすごく感覚の部分に頼っていたのだなあ、と感じる。現在では、僕もいろいろな知識を持っているため、それを武器にして作品を理解していこうとする。でも若い頃は、知識も経験も多くないし、まずそんなまどろっこしい読み方自体にあまり興味がもてない。そのため、無防備の状態で、鉄砲玉みたいに、作品のど真ん中に何も考えずに突っ込んでいく、そんな読み方ができていたのだと思う。
 第2に、この作品が実は、限りなく私小説として読むことができるという点。びっくりするくらいのリアリズムに満ちている。高橋源一郎がどのように20代を消費してきたのか、当時の日本の若者たちの青春とはどのようなものであったか、それらの知識があるから理解できるのだと思う。
 3つ目は、昔は第3部の「さようなら、ギャングたち」が好きだったのに、今は、第1章の「中島みゆきソングブックを求めて」の方が、よりリリックで魅力的だと思うこと。第1章の方が、高橋の強い想いが映されているような気がする。
 「ギャングたち」とは結局、何であったのか。「連合赤軍」、「時代」、「若き青き夢」、それは正しく言語化できるものではないだろう。そうでなければ、高橋はこんな小説を書くことはなかったはずだから。そしてどうして、その「ギャングたち」に「さようなら」をしなければならなかったのか。

「わたしはギャングだったから」とソング・ブックは言った。
「今はギャングじゃないわ。
もう、ギャングじゃ」とソング・ブックは言った。
だからわたしの名前は「さようなら、ギャングたち」だ。(p,26)