教養としての<まんが・アニメ>

 大塚英志がマンガを、ササキバラ・ゴウがアニメの方を担当している。アニメについては、これまで知っていた内容を再確認するといった程度だったが、大塚のマンガ論の方はおもしろかった。
 手塚の記号的マンガ表現は、キャラクターは生身の身体を獲得できない、非リアリズムの表現である。それに対して、手塚はリアリズム的な表現でしかあらわせないもの志向していた。ここに乖離がある。そして、この乖離から生まれてきた問題が、大塚は「成熟の困難さ」であるとしている。記号的身体としてのアトムの体を、「死にゆく身体」として発見してしまった手塚は、同時に決してアトムの身体が、成長できないという難問も、発見していた。
 「成熟の困難さ」という問題は、梶原一騎の作品よりも読み取れる。星飛雄馬は小さな体を酷使し、最終的に破滅してしまった。飛雄馬は、父一徹に特訓を受けていたのと同時に、支配されていたのだ。そのため、飛雄馬が成長するには、父に支配されている自分自身の体をも否定しなければならなかった。それは、身体の破滅を意味していた。矢吹ジョーが最後までバンダム級に無理をしてまで残り続け、結局燃え尽きてしまうのも、飛雄馬と同様の問題である。
 梶原が、成長していく身体の部分に少年マンガを見いだした。一方、少女マンガは、自らが受容しなければならない性的な身体と、それを認識する自意識の部分に、自らを見いだした。それが24年組における「内面の発見」であった。
 80年代のロリコンエロマンガは、記号的身体表現を成熟していく身体として描くという、戦後マンガ史の矛盾とともに、原動力になった問題を、性的コミックの領域に持ち込んだ。
 性的な身体と内面をかかえ、その折り合いをいまだ模索しながら、少女たちは高度消費社会の80年代に突入した。そこで、少女たちは自分たちの性的な身体をも商品とすることで、つまり記号化して、一方内面は「ピンク」を抱いて子どものままでいようとした。こうした80年代に、今まで保留してきた結論に終止符をうったのが、岡崎京子である。