王朝人のこころ

 講談社現代新書の「日本の古典」シリーズの2つめ。良書である。
 取りあげているのは、平安時代。「源氏物語」やそのほかの平安女流文学、和歌や鏡物など、幅広く紹介している。
 和歌で掛け詞が発達したのには、日本語の特性に理由がある。日本語は開音節語*1で母音がすくない。そのため、韻をふもうと思うと簡単にふめてしまう。パターンが少ない。それに対し、ヨーロッパ語や中国語は閉音節語*2で子音が多い。こっちのほうがいろいろな試みができて面白い。そういった点から、韻を踏むのではなく掛け詞という技法が日本ではあらわれた。日本語は音素の数がすくなく同音異義語が多いので、掛詞という技法に適していたのだろう。以下は掛詞を使用して和歌の代表例、

ほととぎす鳴くや5月(さつき)のあやめ草あやめも知らぬ恋をするかな
                           よみ人しらず

 また、「蜻蛉日記」などの平安女流文学は読み手を意識して書かれていない。論理的ではない。その点で、まさに日記である。女どうしのとりとめのないおしゃべりをそのまま記述しているような印象である。当時、漢文は男が用いる、男にしか必要のないもので、女たちは和歌を勉強すれば良かったのである。その和歌を用いて、彼女たちは言い寄る男たちに応答し、その内容が彼女たちの評価になっていた。そのため、彼女らは論理的な文章を書く必要や、相手の自分の意思を伝える文章(主に漢文)を書く必要がなかったのだ。その中で紫式部は、父が学者であったので漢文の知識を持っていて、そのおかげで、「源氏物語」は非常に論理的である。
 本居宣長が「もののあはれ」と表現したスタイル。それは平安女流文学が女の手によって成されたものであるという点に大きく関係がある。当時の結婚は家と家がするものだった。そのことに対し、女たちに決定権はなかった。しかしそれによって、女たちの人生は良くも悪くもなる。婚家先が落ちぶれれば自分たちの一生も苦労の多いものになってしまう。周りを眺めて、女たちはそれを知っていたのだろう。そのままならない世の中で、女たちにできるのは部屋にこもり、和歌を綴ることぐらいではなかったのだろうか。結果、彼女たちの和歌には、自己を評価するための機能と同時に、現実逃避的な役割りがあったのではないだろうか。そういった複雑な思いが見事芸術的に昇華しているのが、平安女流文学なのだろう。自らのままならない生の思いを、和歌にたくして、そぞろ心をまぎらわしていたのだろう。
 そう考えると、ますます美しく感じるようだ。

*1:母音、または2重母音で終わる音節の言語

*2:子音で終る音節の言語