「欲望」と資本主義

「欲望」と資本主義-終りなき拡張の論理 (講談社現代新書)

「欲望」と資本主義-終りなき拡張の論理 (講談社現代新書)

 おもしろい本だった。ひさびさに、ページをかなりエキサイティングしながらめくる本に出会えた。
 「資本主義」をあくまで人間活動の一部としてとらえて、それが人間の欲望、また社会とどのような関係にあるかをするどく体系化している。

資本主義は、人々の欲望を拡張し、それにたいして物的な(あるいは商品という)かたちをたえずあたえてゆく運動だといってよかろう。
だから、巨大企業が宣伝と販売力にものをいわせて、消費者に強引にモノを売りつけ独占利潤を稼ぐのが資本主義なのではない。あるいは逆に消費者が自由に自分の好みのものを選択するシステムなのでもない。それは企業と消費者の共犯になるトータルな運動なのである。その両者が結合して欲望のフロンティアを拡張してゆこうとする運動なのである。(p,74)

 また、資本主義の側面として、

資本主義とは2重の意味での過剰の処理、あるいはもう少し正確に言えば2つのかたちの過剰の処理を組み合わせたプロセスだといえるのではないだろうか。ひとつは、現在行われる過剰の蕩尽であり、これはふつう「消費」と呼ばれるものなのである。そしてもうひとつは、将来行われるであろう蕩尽のために過剰を先送りする活動、つまり「投資」だ。この両者を組み合わせながら、過剰を処理してゆくプロセスが資本主義だということだ。(p,81)

 そして、著者はこれまでの資本主義の流れを3つの時代に分けている。
 1つ目は、資本主義のフロンティアが外へ拡張していく時代。航海術の発達は、ヨーロッパの人々にたいして中国の茶や新大陸からの砂糖をもたらし、消費革命を発生させた。ヨーロッパの国々は、それらの新しく現れた嗜好品を獲得するため、多くの外貨が必要になった。そのために産業革命が起こり、そこで生産された商品を輸出するため、ますます商人たちの輸送技術は発達し、それが結果的に、新たな市場の発見につながっていった。1つ目の時代とは、この2つの車輪が商品を介してクルクル回転することで、資本主義のフロンティアが外へ外へ拡張していった時代であった。
 2つ目の時代は、資本主義のフロンティアが内へ向かう時代である。フロンティアを外にもとめる活動は、20世紀初頭にしてすでに行き詰まってしまった。そこで人々はフロンティアを外ではなく内、人間の中に見いだすようになった。1920年代のアメリカ社会の大量消費大量生産の構造を例に浮かべるのがわかりやすい。社旗全般にたいしてのマーケティング活動や広告活動によって、人々は人々の欲望を喚起して、それによって消費をうながすようになったのである。
 以下は、その当時のアメリカ社会への鋭い指摘。

アメリカ資本主義は移民社会、大衆社会という条件のもとで、人々の「相互の視線」を、そこからくる強迫観念を、不安感を「欲望」に転化していったのである。
そして、今世紀のアメリカでは、消費は精神安定剤の代用になる。消費とサイコ・セラピーという現代のもっともアメリカ的な活動は、本質的には同じものである。(p,155)

 そして、3つ目の時代である。本書では、現代の大衆社会をモノにしか自分をアイデンティファイできない時代であるとしている。自分がモノを消費することを他人に見てもらうことでしか、セルフ・アイデンティティを確認できない時代なのだ。人々は自分の内の欲望を喚起することですら飽和状態に達してしまい、自分自身を欲望の対象にしはじめたのだ。本書では、ナルシシズムという言葉を用いて、こう説明している。

幸福を追い求めた挙げ句の果てに、己にたいしてナルシシズムと言ってもよい程夢中になるという袋小路に迷い込んだ。(p,162)

 「本当の自分さがし」という名目を掲げて、自分自身を愛撫することで、現代社会では人々に消費を喚起しているのだ。
 しかし、人々がモノにアイデンティファイしている限り、現代社会でのきわめて速い変化はモノの価値をどんどん変化させていってしまうので、人々のアイデンティティーは揺らぎ続けることとなる。
 本当にすぐれた本であると思う。3つ目の時代を解説している第6章の「ナルシシズムの資本主義」と、現代の資本主義がたどりついた現状を述べている第7章の「消費資本主義の病理」は、その中でも白眉であろう。ほんとうに、良い本を読んだ。

現代では、欲望のフロンティアは、欲望の主体である人間の「外」にあるのではなく、主体である人間そのものを操作することによって作り出されようとしているのだ。これが欲望の「内爆発」の行き着いた先なのである。別の言い方をすれば、人は、ナルシシズムの欲望を突破するために、自分自身を操作する手法を開発したのである。(p,180)

 過去最長の文章になってしまった。