不勉強が身にしみる

不勉強が身にしみる 学力・思考力・社会力とは何か (光文社新書)

不勉強が身にしみる 学力・思考力・社会力とは何か (光文社新書)

 孔子の「70にして心の欲するところに従へども矩をこえず」の言葉を、孔子も69までは放埒な何かが心にあったのだ、と理解するような筆者がながめる現代日本ゆとり教育や本離れ、倫理学や歴史教科書問題などにするどい視点を持ち込んでいく。
 どちらかといえば、こういう考え方をする人は僕は好きだ。一緒にお酒を飲んだら、きっと楽しく話せるのではないだろうかと思う。筆者も語るように、僕も若いころに文学作品を読み過ぎてやはりどこか歪んでしまった人間であるから、筆者の言うことはよく分かる、もっともだ。
 でも、

信じるというのは、善良な行為ではなく、思考の停止である。考えるのをやめにして、後は他人の意見に身を委ねる。それが「信じる」ということだ。(p.172)

 これは極論。この文脈では、メディアの情報といったものを鵜呑みにしてはいけないよという範囲内での話なのだろうが、ちょっと言葉が強すぎる。人間はやはり何かを、例えば神とか愛とかを、信じていなければ生けていけない存在だと考えている。そういった意味で、「信じる」ことの肯定する意義も書いておいてほしかった。

愛国心と誇りある歴史とは本来的には無関係なものだ。誇るべき歴史の有無にかかわらず、国を愛するのが愛国心であり、むしろ誇るべき歴史を前提とした愛国心教育は、歴史的「正しさ」が否定されたら愛国心を持てなくなる、あるいは愛国心教育はできないという考えに通じる危険性さえある。(p.151)

 これは目からウロコ。メディアなど周りの流れに惑わされて物事の論点が曖昧になってはいけない。
 で、下はオタクな自分への戒めとして、

学ぶことは「好きなことを見つける」のと「客観的評価を受ける」のと「嫌いなことでも理解し、水準以上に達する努力をする」というバランスが取れなければ、本当に伸びない。(p.232)

 うわー。